長嶋茂雄は、第二の父ちゃんだった…

【連載】昭和の父ちゃんから令和の父ちゃんへ伝えたいこと Vol.7

ミスター・プロ野球である
長嶋茂雄さんが亡くなった。

引退は、1974年の秋。
小学六年生だったワタシは、
夕刻から始まった引退セレモニーに釘付け。

”巨人軍は永久に不滅です”
って言葉を聞いたあとに、
庭に飛び出して我武者羅にバットを振った。
涙が止まるまで、素振りを続けた。

昭和9年生まれの実父とも同世代。
昭和30年代生まれのワタシたち父ちゃんにとって
長嶋茂雄さんは第二の父だった…。

プロ野球で3割ヒットが打てれば
一流だと言われている。
2割5分では、二流。

100回打席に立って30本打つか?
25本にとどまるか?
その差は、たったの5本である。
この差が一流か二流かを分ける。

プロ野球の野手たちは、
この5本の差を埋めるために努力をする。
練習をする。

結果を奇跡なんて言ってるプロは、
きっと大成しない。

失敗を7割5分にするのか!?7
割にするのか!?
100回にたった5回の失敗の数を
減らすことがプロを極めることで…
そのためには、
7割の失敗を人様に晒す勇気が必要だ
と言うことでもある。

ワタシがソフトボールや野球に打ち込んだ
小学生時代のミスターは、
もう全盛期を過ぎていた。
打率は、もう3割を超えることはない。
チャンスにも、凡打が続いた。

それでも、なぜだろう!?カッコよかったなぁ。
空振り三振の時は、ヘルメットを飛ばした。
凡打になっても1塁まで全力疾走。
チャンスにゲッツーだって許せた。

ミスターの生涯打率は、きっちりと3割そこそこ。
7割の失敗も絵になった。
いや7割の失敗から勇気をもらっていた。

ワタシにとってのミスターは、
飛び抜けたヒーローではなく、
野球を愛する第二の父ちゃんだった。

天才でも、7割の失敗をする。
天才にも、晩年がやってくる。

100回打席に立って、たった5本の差。
5%の壁を超えるのは、決して奇跡ではない。
努力である。
前向きな切磋琢磨の結果である。
それが身に染みると、7割の失敗も恐れない。
7割の失敗から学べるようになる。

ワタシは、晩年も過ぎて、爺さんにもなった。
生涯のプレゼンの勝率なんて
きっと3割も満たない。

ゴミ屑(くず)となった7割以上の企画という
“豊かな負け”が人生を彩っている。

ミスターに、心から感謝である!!合掌

この記事に関わったTOCHANSは...

中村 修治

有限会社ペーパーカンパニー 代表取締役社長

1962年近江の地で生まれる。1986年に立命館大学を卒業。1989年にバブルの泡に乗って来福。1994年に㈲ペーパーカンパニーを設立し独立。福岡に企画会社など存在もしなかったころから30年以上も最前線で生きている戦略プランナー。企画書を書いた量とプレゼン回数は、九州No.1だと言われている。「JR博多シティ」のネーミングや「テレQ」のCIなどが代表的なお仕事。コラムニストとしても多誌で執筆。福岡大学の非常勤講師も務める。

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