【#1】父ちゃんの父ちゃんが遺したものは!?

【連載】昭和の父ちゃんから令和の父ちゃんへ伝えたいこと Vol.1

ワタシは、昭和生まれの父ちゃんである。
長女は、29歳。次女は、25歳。
ふたりの娘の父ちゃんだ。
今年は、初孫も誕生。
正真正銘のじいちゃんにもなった。
当たり前だが、じいちゃんになった父ちゃん(ワタシ)には、生粋の昭和の父ちゃんが居た。
2004年に、71歳で鬼籍に入った。膵臓ガンによる病死。
闘病の期間は、約1年半。

天に召されるあの日まで、ワタシは、生粋の昭和の父ちゃんと難しい話を交わしたことがない。
進学も、就職も、事後報告。
全部、息子のやることを受け入れてくれた。
最期のコトバは、最期の日の前日に病床から弱々しくひとこと「たのんだぞ!!」だけだった。

だからこそ、この世に居なくなってから、いろいろと考えさせられた。
オヤジの人生は、楽しいものだったのか!?
息子に期待したことは何だったのか!?
ペーパーカンパニーの社長になったワタシに何を想っていたのか!?

父ちゃんの父ちゃんが遺したものは、たくさんの「問い」だった。
父ちゃんとは!?という大きな問い。
父ちゃんとは!?という正しい答えのない問い。

父ちゃんは、国鉄職員を全うした。
決まった時間に起きて、決まったように仕事に出て、決まったように家で過ごしていた。
人間的には、尊敬もしている。
葬式の時に聞かされた親父の地域への功績には、頭が下がる。
でもしかし、公のオヤジのルーティンな暮らしををワタシは受け入れられなかった。
“公という場所は長く働けば働くほど「何もない普通の一日を無事に終える事」を達成する為に最低限の労力を尽くすようになる。”
ワタシがプランナーなんて、こんなにいい加減な仕事に就いたのは、間違いなくオヤジへの当てつけである。

オヤジの葬儀のあとのことである。
遺品のアルバムを何気に開いたところに、凛々しい高校生のオヤジは立っていた。
若い頃は、男前だったという話はお袋から聞いていたので、その容貌にさほどの驚きはなかっが・・・
その写真のひとつに、ひどく胸が痛くなった。
60年近く前の、男前の父ちゃんは、大きなホルンを抱えていたのだ。
ブラスバンド部に所属していたのだ。
そんなこと、聞いたことも、想像したこともなかった。
風呂の中で、演歌しか歌ったことのないオヤジを見ていた息子にとって、それは、かなりの衝撃だった。

国鉄職員を全うしてガンで逝った父ちゃんにも、夢があった。
あの不器用で無口な父ちゃんにも、若い頃に憧れていたものがあったのである。
それさえわかっていたら・・・
ワタシは、晩年のオヤジに、もっと優しくできたと思う。
病気でベッドに横たわる父ちゃんに、違う声がかけられたのにと・・・
涙が出てくる。
いまのワタシにとって、その一枚の写真から推測する昭和の父ちゃんの夢は、大切な宝である。

いまさらだけど、
遺して逝った父ちゃんの夢は、どら息子にとっての夢にもなった。
遺して逝った父ちゃんの問いは、どら息子を真っ当な父ちゃんにしてくれた。

キレイなだけのコトバなんてアテにならない。
コトバにならないことを
令和の父ちゃんたちに、
ちゃんと遺せる昭和の父ちゃんになってやろうと考えている。

この記事に関わったTOCHANSは...

中村 修治

有限会社ペーパーカンパニー 代表取締役社長

1962年近江の地で生まれる。1986年に立命館大学を卒業。1989年にバブルの泡に乗って来福。1994年に㈲ペーパーカンパニーを設立し独立。福岡に企画会社など存在もしなかったころから30年以上も最前線で生きている戦略プランナー。企画書を書いた量とプレゼン回数は、九州No.1だと言われている。「JR博多シティ」のネーミングや「テレQ」のCIなどが代表的なお仕事。コラムニストとしても多誌で執筆。福岡大学の非常勤講師も務める。

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